鎌倉は三方を山に囲まれ、防御上非常に有利な地形をしていました。しかし反対に、人や物資の行き来には不便であったため、山の稜線を切り開いて道を作りました。これを切通(きりとおし)と呼びます。切通は鎌倉への出入り口として交通上だけでなく戦略上重要な意味があったため、周辺には有力者の邸宅などが置かれていました。切通のうち重要な七つを七切通、または七口と呼びました。

朝夷奈切通 鎌倉から六浦・相模湾に出る道で、物資、なかでも塩を運ぶ重要な交通路でした。仁治元(1240)年、北条泰時の命を受けた和田義盛の三男・朝比奈三郎義秀が一夜で切り開いたとされることからこの名が付いたとされます。
あさひなきりとおし
亀ヶ谷坂切通 扇ガ谷と山ノ内を結ぶ道で、武蔵方面に通じる要路でした。建長寺の大覚寺池にいた亀がこの坂を上ったところ、急だったため引き帰したという事から亀返坂(かめかえりざか)と言われるようになり、それがいつからか亀ヶ谷になったとも伝えられています。
かめがやつざかきりとおし
仮粧坂切通 藤沢から武蔵方面に抜ける重要な道でした。書物により表記が異なり、化粧・仮装・気生・気和飛などがあります。地名の由来は、討ち取った平家の武将を化粧し首実検したところだからだとか、近くに化粧をした遊女がいたからだとか言われています。新田義貞が鎌倉に攻め入る際に激戦が行なわれ、幕府軍を破った場所でもあります。
けわいざかきりとおし
極楽寺坂切通 坂ノ下から七里ガ浜を通って藤沢へ抜ける道となっており、京と鎌倉を行き来する重要な道に当たっていました。極楽寺の開山である忍性が開いたとされます。新田義貞による鎌倉攻めの際、大館宗氏を大将とする軍がここから攻め入ろうとしましたが敗れ、義貞は稲村ガ崎から鎌倉に攻め込むこととなります。
ごくらくじざかきりとおし
巨福呂坂切通 雪ノ下から山ノ内へ抜ける道にあり、常陸・奥州への交通路となっています。新田義貞が鎌倉に攻め入る際には、堀口貞光を大将とする軍がここから鎌倉に攻め入りました。現在は通り抜け出来ません。
こぶくろざかきりとおし
大仏坂切通 長谷から常盤を経て藤沢に抜ける道に当たっていました。現在は通り抜け出来なくなっています。
だいぶつざかきりとおし
名越切通 鎌倉から三浦半島へ抜ける道です。北条氏が同じ御家人の三浦氏を牽制する点で防御上重要な意味合いを持っていました。
なごえきりとおし